ポン・ジュノ監督の映画『ミッキー17』を観てきました!
たくさんのロバート・パティンソンが登場する予告編に惹かれて、気づけば劇場へ。
ミッキー17!
おもしろかった!
17は「諦め」で18は「潔さ」なんだなぁ。
18にちょっと惚れた。
BGMがクラシックになると途端にドラマティックになる魔力。
スティーブ・ユァン、いい味👍— GUENOCO (@guenopon.bsky.social) 2025年4月11日 14:18
「死ぬたびにコピーされて再生され、延々と働かされる」という設定を、最初は“なんて究極のブラック企業だ!”と興味半分で観始めたんですが……
実際には想像以上に深くて、おもしろくて、いろいろ考えさせられる作品でした。
というわけで今回は、『ミッキー17』を観て感じたことを、自分なりに整理してみました。
あらすじ
ミッキーは、友人ティモと始めた事業に失敗し、多額の借金を抱えることになった。
債権者から逃れるため、彼は命懸けの惑星開拓任務に志願し、惑星ニフルハイムを目指す宇宙船に乗り込む。
ただし乗船の条件は、「エクスペンタブル(使い捨て)」になること。
ミッキーの身体と記憶はすべてデータとして保存され、死亡時には新たな肉体が生成され、記憶が移植されて再び“生き返る”仕組みだ。
彼は死の危険がある任務に繰り返し送り込まれ、命を落としては、新たな「ミッキー」が生まれてきた。
何度も死につつも、ミッキーは船内で警備員ナーシャと恋人関係になり、充実した船内生活を送ってきた。
物語の主人公は、17体目として蘇った“ミッキー17”。
惑星ニフルハイム探索中にミッキー17は行方不明となり、死亡したものと見なされる。
ただちに、18番目の“ミッキー18”が生成されるが、実はミッキー17は現地の未知の生物「クリーパー」に助けられ、生き延びていた。
そして宇宙船に帰還。
こうして、2人のミッキーが同時に存在するという、組織の禁忌“マルティプル”の状態が発生してしまう。
恋人ナーシャは2人を受け入れたが、船の統治者であるマーシャルにとって、マルティプルは絶対に許されない異常事態だ。
見つかれば、2人のミッキーは身体だけでなく、記録ごと“完全抹消”され、再生もできなくなる。
そんな中、船内で開催されたパーティーで、惑星の生物クリーパーの子どもが2体紛れ込む騒動が起きる。
混乱のなか、一体のクリーパーが殺害されてしまい、それをきっかけに惑星中のクリーパーたちが怒りに震え、宇宙船を取り囲む。
感想
コピー人間は「同じ」なのか?
今の自分の心と体がコピーされ、その情報をもとに新たな個体が複製される——。
「生き続ける」とは言いますが、実際には元の個体の生命と感情は、その時点で分断されているように思います。
そこから先に存在するのは、自分のものではない記憶をもつ、新たな存在にすぎないのではないでしょうか。
ここで浮かび上がる問いは、「自己とはなにか」「生き続けるとはどういうことか」。
“死んでも記憶が引き継がれるから生きている”というシステムは、一見すると人類の進化のようにも見えますが、記憶=人格ではないという違和感が、物語の中で何度も提示されます。
記憶や身体の構造が同一であっても、そこに宿る“個”はひとつではない。
人間だけでなく、犬や猫でさえ、赤ん坊のころからすでにそれぞれ違った個性を持っています。
同じ環境で、同じように生きているのに、なぜこんなにも違うのか。
それは、記憶でも肉体でもない、“魂のような何か”が私たちにはあるということなのかもしれません。
同じ記憶、異なる人格──ミッキー17と18の違い
同じ記憶と構造上は同じ身体をもっていても、やはり別個体です。
だからこそ、17と18の性格に違いがあるのは当然のこと。
劇中でナーシャが「それぞれのミッキーに個性があった」と語っていたのも、それを裏づけています。
心優しく、気弱で流されやすいミッキー17。
一方で、勝ち気で誇り高く、不当な扱いには毅然と立ち向かうミッキー18。
ロバート・パティンソンの演じ分けが見事で、同じ顔であるはずなのに、立ち居振る舞いの違いによって二人の見分けがつくほどです。
姿勢や視線の差だけで、堂々とした18のほうが体格さえ大きく見えるのも興味深い点でした。

もっとも、中盤からはそれぞれの身体に“17”、“18”と書かれることで視覚的にも区別が明確になりますが
二人の違いとして特に印象的だったのは、「死」への向き合い方です。
どちらも死を恐れてはいますが、その態度は対照的です。
ミッキー17にとって死は“諦め”であり、
ミッキー18にとっては“潔さ”だったと思います。
影響し合う存在──オリジナルを超えるコピー
彼らは“母の事故死”を直接体験していませんが、記憶としては共通に保持しています。
17はその記憶に罪悪感を抱き、「自分が死ぬような目にあうのは罰だ」と思い込んでいる。
一方で18は「俺の責任じゃない」と断言します。
母の死は誰のせいでもなく、単なる車の性能の問題だったと、冷静に線を引く。
その言葉を聞いたとき、ミッキー17はようやく罪悪感から解き放たれ、一歩前へ進めたのではないかと感じました。
イルファの亡霊を見たミッキー17が、最初は恐れながらも「ミッキー18ならどうするか」と考え、「消えろ」と言う場面は象徴的です。
18は17の記憶をもとに作られた存在ですが、オリジナルを超える存在へと変化していました。
17自身もその影響を受け、自らの限界を超えようとしていたように思えます。
まとめ
終盤、二人のミッキーは自分たちの命だけでなく、クリーパーたちとの共存をかけて決断を迫られます。
特に、ミッキー18がとった行動は、「生き延びること」にこだわるのではなく、「どう死ぬか」「どんな意志を残すか」に主眼が置かれていたように思います。
ミッキー18の潔さ、そしてその先にある“誰かのために動く選択”、彼に触発されたミッキー17の成長は、彼らが「コピーではない、自分自身」になった瞬間だったのかもしれません。

持って生まれた体でもなく、もらった記憶でもなく、
「自分で選ぶ」ことこそが、自分になるってことなんだなぁ
“使い捨て”だった存在が、自らの意志をもって動く――
そこに、この物語の一番のカタルシスがあったと感じました。
📖映画の原作はこちら📖
タイトルは『ミッキー7』。
ミッキー17ほどたくさんはいません(笑)
設定は映画と近いですが、展開やキャラクターは少し違うようです。
気になる方はぜひチェックしてみてください。
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